日本にゴルフが伝わったのは明治34年(1901年)のことだ。場所は神戸の六甲山。そのコースを作ったのはアーサー・ハロルド・グルームというイギリス人の貿易商だった。彼は六甲山の平坦地を利用して4ホールのコースを開き、外国人居留地の仲間たちとゴルフを楽しんだ。これが「神戸ゴルフ倶楽部」の起源であり、日本ゴルフ125年の出発点である。
明治の外国人居留地とゴルフ文化
19世紀後半、開国によって日本各地に外国人居留地が設けられた。横浜、神戸、長崎——港湾都市に集住した外国人たちは本国の文化を持ち込み、テニス、クリケット、そしてゴルフを楽しんだ。ゴルフはその中でも特に「上流階級の娯楽」として位置づけられ、居留地内の社交の場と密接に結びついていた。
グルームが六甲山を選んだのは偶然ではない。神戸の外国人居留地は急激な人口増加で手狭になっており、山手の別荘地として六甲山が開発されていた。グルーム自身も六甲山に別荘を持ち、その地形がゴルフコースに適していると見抜いたのだ。
1903年には正式に「神戸ゴルフ倶楽部」が設立され、ホール数も6ホールに拡張された。当初の会員はほぼ全員が外国人だったが、徐々に日本人会員も加わるようになった。
横浜・東京へのゴルフの広がり
神戸に続き、1905年には横浜ゴルフ協会が設立され、1913年には東京ゴルフ倶楽部(駒沢)が開設された。東京ゴルフ倶楽部の設立には渋沢栄一の息子・渋沢武之助も関わっており、財界人たちがゴルフを社交の道具として積極的に取り入れていったことがわかる。
大正・昭和期の普及と日本独自の発展
大正時代(1912〜1926年)に入ると、ゴルフは外国人の遊びから日本人の遊びへと変容し始めた。1914年には茨木カンツリー倶楽部(大阪府)が開設され、1920年には鳴尾ゴルフ倶楽部(兵庫県)が設立された。関西を中心にゴルフクラブが次々と誕生し、日本人プロゴルファーも少しずつ育っていった。
日本初の国産ゴルフクラブが製造されたのも大正時代の末期のことだ。それまでは英国製の道具を輸入するしかなく、コストが普及の妨げとなっていた。国産化によってゴルフ道具が手に入りやすくなり、競技人口の拡大につながっていった。
昭和に入ると、1927年には全日本オープンゴルフ選手権(現・日本オープン)が初開催された。日本のプロゴルフの歴史において記念すべき第一歩だ。この大会で初代チャンピオンに輝いたのは宮本留吉——以後、宮本は日本ゴルフ界の草分けとして活躍し続けた。
1940年東京五輪と幻のゴルフ競技
あまり知られていない歴史的事実がある。1940年に開催が予定されていた東京オリンピックでは、ゴルフが競技種目として計画に含まれていた。しかし日中戦争の泥沼化を受けて日本はオリンピックの開催権を返上し、大会自体が中止となった。もし1940年東京五輪が開催されていれば、ゴルフは1904年セントルイス五輪以来36年ぶりに五輪競技として復活していたことになる。
日本プロゴルフ協会の設立と戦後の発展
第二次世界大戦後、日本のゴルフは復興とともに急速な発展を遂げた。進駐軍の将校たちがゴルフを楽しんだことも、戦後のゴルフ普及に一役買った面がある。
1954年には日本女子オープンゴルフ選手権が創設され、女子ゴルフの組織化も進んだ。そして1957年、日本プロゴルフ協会(JPGA)が設立された。JPGAの設立は日本プロゴルフの制度的な基盤を作り上げ、ツアー競技の体系化につながった。
1970年代には尾崎将司(ジャンボ尾崎)が日本ツアーを席巻し、青木功、中島常幸とともに「AON時代」を築いた。この時代、日本のゴルフ人口は爆発的に増加し、バブル経済期(1980年代後半)にはゴルフ会員権が億単位で取引されるバブルも経験した。
現代への系譜——世界で戦う日本人ゴルファー
松山英樹が2021年マスターズで日本人初のメジャー優勝を果たしたとき、日本中が沸いた。しかしその背景には、神戸・六甲山からの120年の積み重ねがある。
今日の日本には約2300コース(世界第2位の数)があり、ゴルフ人口は約550万人に達する。賞金女王を何度も輩出してきた女子ゴルフは国内最高水準のエンターテインメントとして確立され、渋野日向子や古江彩佳ら若い世代が世界舞台に挑んでいる。
アーサー・グルームが六甲山の土を掘ってホールを作った日から125年。貿易港の外国人の娯楽だったゴルフは、今や日本の文化の一部として根を張っている。