ゴルフの歴史を通じて「最大の偉業」を一つ挙げろと言われたら、多くの歴史家は迷わず1930年のボビー・ジョーンズのグランドスラムを選ぶだろう。全英アマ、全英オープン、全米オープン、全米アマ——当時の4大タイトルすべてを同一年に制覇したのは空前絶後の快挙であり、今日に至るまで誰も繰り返していない。しかも彼はプロではなかった。生涯を通じてアマチュアのまま、ゴルフ史上最強の競技者として君臨したのである。
ボビー・ジョーンズとは何者か
ロバート・タイア・ジョーンズ・ジュニア、通称ボビー・ジョーンズは1902年、アトランタに生まれた。父は弁護士、母は教育者という知的家庭に育ち、ジョーンズ自身もジョージア工科大学を卒業後に法律を学び、弁護士として生計を立てた。ゴルフはあくまで「趣味」だったのだ。
5歳でゴルフを始め、14歳で全米アマに出場したときには既にその才能は明らかだった。しかし20歳になるまでの間、彼はメジャー大会で何度も勝てなかった。感情的でクラブを投げることもあったという。この時期を「七年間の辛苦」と呼ぶ人もある。
転機となったのは1923年。21歳で初めて全米オープンを制し、そこから驚異的な連勝が始まった。1923年から1930年の間に、メジャー競技への出場は20回、そのうち13回で優勝という成績を残した。
1930年——グランドスラムへの道
1930年は、ジョーンズにとって完璧な1年だった。春、彼はイギリスへ渡り、まず全英アマを制覇。続けて全英オープンでも優勝した。そしてアメリカに戻り、全米オープン、全米アマを連続して制した。
4つのタイトルを1年で制覇する——この偉業に「グランドスラム」という名称を与えたのは、スポーツライターのO.B.キーラーだった。もともとブリッジのカード用語だった「グランドスラム(全獲り)」を転用したこの命名は、瞬く間に広まった。
競技の特殊性
ここで注意が必要なのは、1930年当時の「グランドスラム」は現代のものとは異なるという点だ。現代のグランドスラムはマスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロ選手権の4つで構成される。しかし1930年の時点でマスターズはまだ存在せず(創設は1934年)、全米プロ選手権はプロ限定だったためアマチュアのジョーンズは出場できなかった。
それでもこの快挙の価値は少しも損なわれない。4大会のうち2つはアマチュア競技であり、プロとアマが同等以上に評価されていた時代に、ジョーンズはその両方で最強だったのだから。
アマチュアとしての誇り
ジョーンズがプロに転向しなかった理由は、倫理観と社会的背景の両方にある。当時のゴルフ界ではアマチュアが崇高な地位を持ち、報酬をもらってプレーするプロは「見下される」側面があった。また、ジョーンズは弁護士として生計が立てられており、ゴルフの報酬を必要としなかった。
しかしそれ以上に、彼には「ゴルフは生涯の遊び、友情のゲームであるべきだ」という哲学があった。競技において徹底したフェアプレーを実践したことでも知られ、1925年の全米オープンでは自分のボールが動いたと審判に申告し、そのペナルティで優勝を逃す場面があった。誰も見ていなかったが、彼は迷わなかった。「私を褒めないでほしい。泥棒を褒めないように」——そう言い放ったと伝わる。
引退とオーガスタ・ナショナルの創設
グランドスラム達成の直後、1930年11月、ジョーンズは28歳で競技から引退した。絶頂期の引退は多くの人を驚かせたが、ジョーンズはその理由として「競技の重圧が精神的・肉体的な健康を蝕んでいた」と説明した。
引退後、ジョーンズが取り組んだのが夢のゴルフコース建設だった。ジョージア州オーガスタに土地を購入し、スコットランド出身の建築家アリスター・マッケンジーとともにコース設計を行った。これが後の「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」であり、マスターズ・トーナメントの舞台となる。
晩年のジョーンズは脊髄の難病(脊髄空洞症)に侵され、50代半ばからは車椅子生活を余儀なくされた。それでもマスターズ期間中は毎年オーガスタに姿を現し、友人たちや若い選手たちと交流を続けた。1971年、69歳で生涯を閉じるまで、彼はゴルフと関わり続けた。
ゴルフは結果ではなく、どのようにプレーするかのゲームだ——そんな精神を、ボビー・ジョーンズという人物は生涯を通じて体現した。グランドスラムの記録は彼の偉大さの象徴に過ぎず、その奥にはゴルフというゲームへの深い愛があった。