1960年の全米オープン。最終ラウンドを迎えたアーノルド・パーマーは、首位に7打差をつけられていた。誰もが諦めたとき、パーマーは最終ラウンドを65で回り、劇的な逆転優勝を遂げた。

これは単なる優勝ではなかった。この瞬間から、ゴルフという競技は変わった。

アーノルド・パーマーという革命

アーノルド・パーマー(1929-2016)は、ゴルフ史上で初めて「スター」となったプロゴルファーだ。

それ以前のゴルフは、上流階級のスポーツというイメージが強かった。クールで、静かで、礼儀正しい——そんなゴルフの世界に、パーマーは全く別のエネルギーを持ち込んだ。

袖をまくり上げ、汗をかきながら、まるで闘士のように打つ。バーディを決めれば感情を爆発させ、ボギーには悔しさをあらわにする。そんなパーマーを見た観客は熱狂した。

アーミーズ(Arnie’s Army)の誕生

パーマーの試合には熱狂的なファンが殺到し、「アーミーズ(Arnie’s Army)」と呼ばれる軍隊のような観客集団が生まれた。彼らはパーマーと一緒に歩き、一緒に喜び、一緒に悔しがった。

ゴルフ観戦という文化が、ここで初めて確立したのだ。

テレビとの出会い

1950年代後半からアメリカでテレビが普及し始め、プロゴルフ中継が本格化した。パーマーの劇的なプレースタイルはテレビとの相性が抜群だった。

カメラが彼のファンに向けられ、彼の表情を映し、彼の一打一打をドラマチックに伝えた。視聴者はテレビの前でゴルフに魅了された。

1960年代を通じて、アメリカのゴルフ人口は約200万人から600万人に急増した。

ジャック・ニクラウス——黄金熊の登場

1962年、全米オープンにひとりの若者が現れた。22歳のジャック・ニクラウス。プレーオフでパーマーを下し、一躍スターダムへと駆け上がった。

しかしニクラウスの登場は、最初から歓迎されたわけではなかった。

パーマーの熱狂的なファンたちは、若いニクラウスを冷淡に迎えた。太めの体型から「ファット・ジャック」と呼ばれることもあった。彼らにとって、ニクラウスはパーマーの敵だった。

ライバル関係がゴルフを面白くした

しかし、ニクラウスの実力は疑いようがなかった。1963年にはマスターズと全米プロゴルフ選手権を制し、パーマーと並ぶ存在感を示した。

二人のライバル関係が、ゴルフの人気をさらに押し上げた。

「今週はアーニーが有利か、ジャックか」——毎週の試合がそれだけで視聴者の興味を引いた。

グランドスラムの概念を広めたニクラウス

ボビー・ジョーンズが1930年に成し遂げた「グランドスラム」(当時は4つのアマチュア・プロ混合大会)。ニクラウスはその概念を現代の4大メジャー(マスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロ選手権)に置き換え、メジャー最多優勝を目指した。

ニクラウスはキャリアを通じてメジャー18勝という前人未到の記録を打ち立てた。

この記録は今日も破られていない。

マスターズの確立——Augusta National の価値

1960年代は、マスターズが「世界最高峰の大会」として確立された時代でもある。

1934年にボビー・ジョーンズとクリフォード・ロバーツが始めたこの大会は、美しいオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブでの開催、招待制という特別な性格、そして緑のジャケットという伝統が組み合わさり、他の大会とは一線を画す存在になっていた。

パーマーは1958年、1960年、1962年、1964年と4度マスターズを制覇。ニクラウスも1963年に初優勝し、最終的には6度制覇することになる。

ジョーンズの影

オーガスタのコース設計者であるボビー・ジョーンズは、1950年代から進行性の神経疾患に侵されていた。車椅子での観戦となっていた晩年も、ジョーンズはマスターズを見守り続けた。1971年に他界。

パーマーとニクラウスは、ジョーンズの「ゴルフは紳士のスポーツ」という精神を受け継ぎながら、それを大衆へと開いていった。

ゲーリー・プレーヤー——ビッグ・スリーの完成

パーマー、ニクラウスと並んで「ビッグ・スリー」と呼ばれたもう一人の選手がいる。南アフリカ出身のゲーリー・プレーヤーだ。

体格に恵まれなかったプレーヤーは、徹底的な体力トレーニングでそれを補った。世界中をツアーし、「世界のゴルフ大使」として各国でゴルフを広めた功績も大きい。

プレーヤーはゴルフ界で初めて「フィットネスが競技力を高める」ことを実証した人物として知られる。

PGAツアーの隆盛

1960年代後半、アメリカのPGAツアーは賞金総額が急増した。

1960年の総賞金額は約180万ドル。それが1970年には700万ドルを超えた。スポンサー企業が次々とゴルフの価値に気づき始めた。

テレビ放映権料も高騰。プロゴルファーは初めて、ゴルフだけで豊かに暮らせる職業となった。

道具の進化——カーボンシャフトの夜明け

1960年代はゴルフ道具にも変革期が訪れた。

それまで主流だったスチールシャフトに加え、アルミニウムやグラファイト(カーボン)素材の研究が始まった。本格的なカーボンシャフトの普及は1970年代以降だが、この時代の技術革新がそれを準備した。

また、ゴルフボールの制度化も進み、USGA(全米ゴルフ協会)とR&A(英国王立ゴルフ協会)による規格管理が厳格になった。

日本へのアメリカンゴルフの波及

アメリカのゴルフブームは日本にも波及した。1960年東京オリンピック(ゴルフは非採用)の影響もあり、日本のゴルフ人口が急増した。

大阪・神戸を中心とした関西圏でも、この時期に多くのゴルフ場が建設された。週末に家族でゴルフへ行くというスタイルが、日本の中産階級に広がり始めた。


パーマーとニクラウス——二つのスターは、ゴルフを「見るスポーツ」に変え、プレーするスポーツとしても大衆化させた。

彼らが存在しなければ、今日の1億人を超えるゴルファーはいなかっただろう。テレビという魔法の箱が、二人の巨人と組み合わさったとき、ゴルフは初めて本当の意味で「世界のスポーツ」になった。